カテゴリー: ヤセノヴァツ

春だから。

ヨム・ハショア、ホロコースト追悼日だった。ホロコーストを体験した人たちはもう80を過ぎた高齢者。ミロゴイ墓地内のユダヤ墓地に集まった参加者が去年よりも少ないような気がした。去年は参加できたけど今年はもう身体がきつくて参加できない、もしくはもう現世を終えてしまった人が多い。クロアチアのアウシュヴィッツと呼ばれるヤセノヴァツの跡地でも追悼式が行われ、セルビアから、クロアチアから、そしてその他のから遺族やそこを生き延びた人たち(この言葉よりもよい言葉が見つかりません)が参列した。今年は、ここに思ったことを少し書こうと思う。

現在のヤセノヴァツは、ただの原っぱだ。コンクリートむき出しのモダンアート的な「ヤセノヴァツの花」Eternal Return、永遠の復活を示すモニュメントが、でーんっとそこに立っている。大抵ヤセノヴァツで式典が行われる日は雨だったりして、まるで血か涙のように灰色のコンクリートに流れ落ちる雨のじわりと滲んだ様子に気が滅入る。原っぱに黄色いたんぽぽの咲くクロアチアに春が近づくと、ああ、ヤセノヴァツ、ホロコースト、とわたしはなんとなく、だから気が重くなる。

第二次世界大戦時に起きたことを伝える役割を果たしていないヤセノヴァツ。その過去を覆い隠してしまっているため、そこへ行く価値はそれほど見いだせない。日本やその他の国々でも覆い隠して来た、または隠したい過去があるように、ここでもまた政府はそれを隠したく、なかったことにしたい、なんとかうやむやにして闇に葬りたい、もしくは犠牲者サイドに責任転嫁をしたい、そんなところだろう。

そんな政治背景からヤセノヴァツの博物館館長は、ヤセノヴァツを作り管理し運営したクロアチアの人ではなく、多くのユダヤ人やロマ(ジプシー)と同じくそこに連行され殺された犠牲者であるセルビア人だ。やるせない。跡地に立つ小さな小さな博物館内には当時を知る展示物は皆無に近く、いずれの教育的な意味合いをまったく持っていない。そんなところでなにを知ることができるのか。ひとつだけ当時の事実を伝えようとしているものがあるとすれば、そこに保管されている分厚い3冊の犠牲者名簿だけかもしれない。

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カテゴリー: ホロコースト, ヤセノヴァツ

無力

ヤセノヴァツを訪れてから一週間近くが過ぎた。

ようやく、今日になって、あの日に撮ったものを見てみたのだが・・・。

重い。

とにかく重い。

順をってその日のヤセノヴァツの170枚を追ったのだが、
はじめからもう頭がぐらんっと回って、ふらふら、気分が悪くなってしまった。
情けない。

ヤセノヴァツで
ホロコースト記念館の館長さんと記念館の本を和訳しましょうなど、
いろいろと話をして帰って来たのだが、
それからずっと今週いっぱいヤセノヴァツについてさらに調べものをしているうちに、
自分の無力をひしひしと感じるしかなくなってしまった。

今のたんなる原っぱでしかないヤセノヴァツ。
それしか知らないわたしに、なにができるのだろうか。
わたしの見たもの、感じたもの、
思ったこと、
そんなものは当時のヤセノヴァツからすれば屁でもない。
わたしの涙なんて、笑っちゃう。

ネットでは人として見てはいけないような
当時の画像やストーリーが載っているが、
心臓発作が起きそうなそんな事実を抜きにして、
原っぱのヤセノヴァツのなにを伝えられるのだろうか、
なにを伝えたいのだろうか、
なにを伝えなければならないのだろうか。

63年前まで、こんなところでこんな虐殺がありました。
知ってください。
悲しいデキゴトでした。

・・・だから?
・・・だからなにが言いたいのだ?

あー、わたしはなんて無力なんだナンダナンダナンダ・・・。

カテゴリー: ホロコースト, ヤセノヴァツ

ヤセノヴァツへ。

先週の日曜にはペサハの前の集まりで、クロアチア東北のオシイェクの街までちょっと遠出。総勢40人ほどか。

オシイェクでのホテルでのランチで、以前から知っているその人がギターで「黄金のエルサレム」を歌った。なんだか、泣けて来た。泣けて来たんだけど、まわりの人たちはあまりこの歌には関心がないのにも、なんだかもっと泣けて来た。まあエルサレムに、いやイスラエルに行ったこともない人も多いのだから、この歌とのつながりが持てないのはわかるのだが。そして、わたしはエルサレムにやはりさよならは言えない。

明日、金曜にはヤセノヴァツへ。

4月22日の解放記念日の前に行くことになった。ヤセノヴァツもアウシュヴィッツも、単なる興味本位で行けるところではない。2月に訪れたエルサレムのホロコースト博物館、ヤド・ヴァ・シェムも同じく。そのヤド・ヴァ・シェムにはたくさんの生徒たち(中学とも高校とも思えた)が授業の一環か何かで来ていたが、地下のカフェテリアや階段などではあちこちから彼らの笑い声が響いて、大変驚いた。学校は彼らをそこに連れて来る前に、そこがどういう場所なのか教えていないのだろうか。それとも、祖父母がホロコースト体験者であっても、その三世ともなればもうホロコーストは遠い過去の話でしかなく、自分とのつながり、または関係が現実ではないのだろうか。第二次世界大戦時の広島や長崎もおなじように、1970年代に生まれたわたしにはその実感などあるはずはないが、だからそれでいいということでもないだろう。歴史の伝承にはかなり力を入れているユダヤの教育ですら、時代とともに変わりゆくのも仕方がないのか、仕方がない、それで終わってしまってよいのだろうか。それともこれは世俗が進むイスラエルのユダヤ人だからなのか、日本だからなのか。いや、どこでもおなじようなものなのだろう。人には「忘れる」という能力がある。それがなければ、生きて行けないのかもしれない。

さあ、今夜は眠りたい。というか、眠らないとまた明日が大変だ。徹夜明けの遠出はしんどい。