カテゴリー: 不思議のクロアチア

夢の街ドゥブロヴニク。

坂のある港街が好きなわたしにとって、夏のザグレブは相変わらずつまらない平地の街であることには変わりなく、だけど碧いアドリア海に囲まれたドゥブロヴニクでのバカンスから戻ったこの街は、物質的な暮らしにおいてはクロアチアで唯一充実した街なのかもしれないと思わせた。もしあのドゥブロヴニクに住んだなら、いったいどこで日常的な買い物をしたらいいのだろう。それが現実的な問題だ。

ありとあらゆるものが揃ったメルティングポットなエルサレムから暮らしの拠点をこのザグレブに移した当初は、中心街のイリツァ通りに立ち並ぶショップの田舎くさい衣服センス、自然食品店はあってもアジア食品店の一軒もなく、列車でブダペストまで買い出しに行くのがよいだろうとチャイニーズレストランのおじさんがいうのに唖然とし、かつてはイタリアのトリエステまで、そして今は毎週お隣オーストリアのグラツまでショッピングツアーのバスが出ているほど、物の少なさと不便さとに驚いた。エルサレムでなら近所のスーパーの雑貨コーナーでも売っているようなちょっとした生活用品すら、ここでは郊外の大型ショッピングモールまで行かねば手に入らない。そこまでも電車にバスにと乗り継ぎしなければ行けない。もっと住みやすい街がいい、この二年半近く、ずっとそう思ってきた。

さて、ドゥブロヴニク。透明に近い美しい碧い海を眺めながら一度はこんな街に住んでみたいと夢を見る。しかしアドリア海の真珠と呼ばれながらもこの街は、残念ながら押し寄せるツーリズムの波にディズニーランドもしくはテーマパーク化した世界的な大観光地と成り果てた。おかげで世界各国からの観光客で溢れるレストランやカフェをはじめ、ストラドゥン通りや路地のみやげ店、カフェ、レストランのどこもがおかしなことになっている。城壁や石畳の照り返しのきつい炎天下の真夏の午後、ザグレブから来たわたしにはコーラひとつとってもザグレブの倍額もしているようなカフェには入ることすら躊躇してしまう。ミネラルウォーターを買おうにもそんなものを売っている店は一軒しかなく、わざわざそこまで人ごみを掻き分けて戻るのかそれともバカ高いカフェに入るか脱水状態に陥るか。そんなドゥブロヴニクの商魂たくましい罠にはまる。殿様商売のレストランは、たった一度しか来ないどこぞの観光客に心のこもったサービスや良心的な値段などいらない。だから地元の人たちはそんなところへは行かない。街で唯一の青空市場だって、その値段と品揃えからそこが観光客目当てなのは明らかで、洗濯ものが揺れる路地の家屋のその多くはバカンスに訪れるだけの成金外国人たちに一生遊んで暮らせるほどの多額で売却され、地元の人たちの暮らしはまったくといっていいほど感じられない街となってしまった。美しく華々しいドゥブロヴニクの裏側の悲しく醜い現実。ツーリズムは人も街をも壊してゆく。 

そんな旧市街が地元の人たちの日常の一部であるはずがない。旧市街とは別に地元の人たちのお財布に見合ったダウンタウンのようなものがどこかにあるのだろうか。いや、そうにちがいない。街から来た者には単純にそうとしか思えない。そこで生まれも育ちもドゥブロヴニクでござんすという知人たちに聞いてみたところ、予想に反して旧市街以外にはこれといった街はなく、市場もそこのみで、青果はおそろしいほどの価格でしかも品数も少なくなかなか地元の人たちには手が出ないという。またザグレブやスプリットのような大型ショッピングモールなどないため*、衣類にいたっては若い人は車で5時間のスプリット、ちょっと生活に余裕のある人は飛行機でザグレブまで飛んでいくという。大学で犯罪法を教えているその女史と小児科医である彼女の妹さんは、時々スーツケースふたつでザグレブにやってくる。ひとつには衣服を、もうひとつにはドラツの青果市場で買い込んだ果物や野菜を詰めこんで帰るために。

その旧市街から徒歩で30分ほどの郊外、地元の人たちがふつうに生活している地区に今回滞在した。しかしやはりそこから旧市街までの間の表通りには店らしきものはほとんど見当たらず、近所のおじさんたちが集うカフェなんてものもコンズム(Konzum)などのスーパーの影すらもなかった。チャイナショップという名のチープな衣料店、路地のスナック菓子、飲料水、パン、石けんなどが店番のおばさんの周り取り囲んでいる小さな昔風の雑貨屋、アルバニア系のパン屋を見つけたが、それ以外はなにもなかった。いやはや、なんだかこのアドリア海の街で暮らしていくのはかなり大変そうだ。うちの猫のペットフードなんてどこで買うのだろう。

これまで日本の一地方都市ぐらいのとるに足らない街だと、特筆することもないと見下していたザグレブは、アジア食品店がなくともファッションセンスが悪かろうとも、ドラツをはじめ数軒の青空市場の他パン屋にスーパー、ショッピングモール、dm(ドイツ系大型薬局・化粧品店)衣類や靴、眼鏡屋、ペットショップなどがあちこちに点在し、日夜カフェには人々が溢れる。スーパーを併設した大型ショッピングモールだって何軒もある。ザグレブはやはりクロアチアの首都、そしてクロアチアで無二の大都市なのだ。碧い海に浮かぶドゥブロヴニクに住もうなどと夢などみず、あの街はバカンスに訪れるだけの夢の街としてそっとしておくのがいいのかもしれない。

(*ドゥブロヴニク旧市街から空港へ向う道一か所でだけ大型スーパーの看板を見かけたが、実は以前ザグレブのイスラエル系大型ショッピングモールの経営者が、ドゥブロヴニク郊外にも大型モールの建設を打診したところ、異常なほど高価な土地のため一から建設すれば大赤字は避けられず実現には至らなかったという。なので未だドゥブロヴニクにはその看板のスーパーしかないということなのだろう。)

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カテゴリー: 混沌の文化

死の文化

なんだかうまく書けないんだけれど。

一ヶ月ほど前に近くの映画館で『おくりびと』を観てから、母が送ってくれた何冊かの雑誌といっしょに届いた『納棺夫日記』。映画とはまったく似ても似つかない北陸、浄土真宗、生死、宗教、近年の日本人でも馴染みが薄れつつあるテーマ。これを映画にしたらハリウッドでは無理だった。

『おくりびと』と『納棺夫日記』の共通点に世間では死にまつわる職業は穢れて恥ずかしい職業とされているとあった。それでは寺や僧侶も穢れているのかと問うて「そうだ」と答える人は稀だろう。なのに葬儀屋や納棺する人はそうなの? 

子供時代の12年を著者の住む富山に近い北陸の真宗寺院ですごしたわたしにとって、死は日常だった。死は学校から帰宅するとそこにあった。といってもそのほとんどが他人の死、ではあったけど。深夜遅くや朝方に家中に響く電話はたいていがそれで、それからすぐに父が黒い衣をまとい枕行(まくらぎょう)にでかけていく。その翌日か翌々日には、学校から帰ると境内にはすでに運び込まれた大きな花輪、葬儀屋さんのトラック、祭壇を組み立てる喪服の大人たち(葬儀屋さん)、祭壇に飾る花を運んできた花屋さん、「あ、お棺屋さんが来た来た!」という母の声、泊まり込みの遺族の部屋のお布団を出したり湯のみや薬缶の用意をするお手伝いさんで家中がバタバタしていた。いつもより美しい祭壇のときはまだ誰もいないときに母が「ちょっと見ておいで、きれいだよ」と呼んでくれたっけ。薄暗い御堂の大きな祭壇の両脇に、淡い電気のロウソクの光りにくるくる照らされる蓮の花の雪洞が幻想的で美しかった。玄関口に設えられた小さな日本庭園風な風流な飾り。そんなデザインが70年代終わりから80年代初頭にかけて北陸の葬儀では流行っていた。うちによく出入りしていたその葬儀屋さんは、つるっと丸坊主で目がくりくりして、あだ名はキューピーのおじちゃんだった。いつも喪服を着たところしか知らないそのキューピーちゃんは、とてもやさしい人だった。もうずっと前に亡くなってしまったけれど。それから90年代になって、寺での葬儀の数がぐーーんっと減った。世代が変わり時代が変わり、宗教ばなれもあって、なにもわざわざ抹香臭い寺でしなくてもいわゆるセレモニーハウスでの葬式セットのほうがいいというわけ。

子供のわたしには、その日の夕食のメニューが気になった。通夜の晩だとかその前夜に遺体と遺族が泊まっていた日の夕食は、カレーだとかスパゲッティーだとか焼き魚煮魚だとかふわふわ匂いが漂うものはNGで、野菜の煮ものなどどこか茶色い食卓だったイメージが脳裏にある。そしていつもよりも音をたてないように気をつかって静かにそおーっと食べた後、音を小さくして茶の間でテレビをみていると、たいてい古い漆塗りの廊下の軋む音とともにふすまががたがたと開いて、喪服のおじさんがわたしの隣でいっしょにテレビを観ている祖母に挨拶に来たりした。御堂の裏の香部屋に泊まっている遺族の夜の過ごし方で、だいたいどんな人が亡くなったのかがわかった。どんちゃんどんちゃん、宴会の酔った笑い声が聞こえて来るのはお年寄りの大往生。そういうときはこちらもあまり気にせずにテレビを観られたけれど、かなり離れた茶の間まで大きな泣き声が聞こえて来たりした夜はまだ死ぬには早いと惜しまれる人で、だけど同じ屋根の下で繰り広げられているそういった死のシーンとわたしの日常は交差しないようでしているようで、でもそこには聖も穢れもなくただ両者が同じ空間の中にある。それだけだった。

葬式の終わりに金沢独特の黒塗りの豪華な霊柩車が境内から出て行くのも、週末などで家に居合わせたときは二階の広間の窓から見ていた。時々お葬式の最後に境内で子供たちにお菓子がくばられることがあって、遺族の子供たちに混ざってお菓子をもらったこともある。葬式のお供え物の籠盛りもふつうにありがたく美味しくいただいた。果物にカルピスやホットケーキミッスク、カール、桃缶がとてもうれしくかったっけ。座敷の裏の廊下の大きな水屋には葬式や法事などの死の行事からいただいた食材がいつも溢れんばかりに入っていた。

そういう生い立ちだからかどうなのか、わたしにはその巷の「死と穢れ」という概念自体が、まるでふしぎなはなしを聞いたような感覚でしかない。まったくピンと来ない。物心ついたころから生活の中になんのフシギも疑問もなく死にまつわる人や物がいつそこにあり、またそれが穢れたものだという外的なインプットがほとんど届かない世界にわたしは住んでいたらしい。大人になった今、それもかなり特殊なことなのかもしれないとわかってきたけれど。ユダヤの死の文化では死者の遺体を清めるタハラという作業があり、それを行う人はもっとも尊い人とされるけど、そのほうがなんだかピンと来る。

ちょっと話は変わるが、ミロゴイ墓地で葬式に参加した時、棺を墓穴に下ろし土をその上からどーん!どーん!と無雑作に放り投げるようにするのは少々気分的に馴染めないといったことを以前ザグレブの友人に話したことがある。そこから日本では火葬だからという話になり、斎場で遺族が故人の骨をおはしで拾って壷にいれ、場合によっては自宅に保管することもあると聞いた彼は、それがへんな新興宗教とかカルト宗教だとかではなくほんとうにごくごくふつうの習慣なのがとうてい信じられなかった。まあ、そう言われてみると確かにおどろおどろした行為ともとれるかもしれない。だけどクロアチアの死の文化のひとつに、先に土葬したところに何層ものレイヤーとなって他人を埋めるが、そのほうがなにかゾッとする。ということを父に話したところ、日本だってかつては土葬だったし同じように上に重ねて埋葬しましたよ、といわれて、へー。まだまだ知らないことばかり。