カテゴリー: 不思議のクロアチア

発想のちがい。

ザグレブでは古着屋が流行らないということを前に書いたことがあった。古着屋へ行く=貧乏人という観念が強いらしい、と。それじゃあ、トモダチ同士(オンナノコの場合ね)なんかで服を着回すのはどうなのかというと、これもどうもイマヒトツな反応なのにもちょっと首を傾げてしまう。本当に仲のよいトモダチ同士であればヒトによってはオッケーらしいが、そりゃあまあそうでしょ。あまり親しくないヒトと洋服の交換って、女の子といえどもあんまりしないでしょ。

つまりレンタルや古着、服の交換など、他人がすでに使用した「新品でないもの」を使うことに抵抗があるようで、そうするのは貧乏な生活者ということなのだろう。新しい品物が買えないからお古の施しを受けている、そんなふうな構図。だけど、これまで疑うことなく学生時代からトモダチと気軽にスカートだったりジャケットだったりを交換して来たわたしには「なによ、アタシが貧乏だって言うの!?」とプライドが傷つく、というのには一瞬理解をこえて、うんざりした。ほんと、やりにくいヒトたちだなと。だけどそれからしばらくそのことを考えてみた。

わたしはできるだけシンプルに、あまり物を持たずに暮らしたいと思って来た。そして持つならば、シンプルに良いもを少し、それがいいと思って来た。だけど、それは物の溢れる社会(国)に育ったものだからそう思えるのかもしれない。もしなにかが欲しくても手に入らない生活を長くしていたら、誰かに着れなくなった服をあげましょうかと言われたら、やっぱり傷つくかもしれない。相手にそんなつもりがなくても。古着屋など、質屋と同じでその店のドアは叩くのは恥ずかしいと思うかもしれない。それよりも、ブランド店へ行く自分を夢見るだろう。そしてついにそれを身にまとった時にはここぞとばかり、スノッブな態度になるかもしれない。自分をデフェンスし、コンプレックスを隠すために。

つまり、社会主義の簡素なユーゴスラヴィア、または特に産業的にも文化的にも誇れるものがあるわけでもない中欧の小国クロアチアと、物質的にも文化的にも不自由のない日本とのギャップが大きすぎて、イスラエルがワンクッションになっていたとしても、わたしには彼らの奥底にあるコンプレックスだったり物質的な生活への憧れだったり、そういったことがなかなかピンと来ないのではないか。日本人であるが故に、わたしがわたしであるが故に、その裏にあるものがなかなか見えにくい。そんなふうにイスラエルに対しても思ったことがあったのかどうか、今となってはまったく思い出せないけれど、あまりなかったように思う。

なんてことを長々と書くつもりはなかったのに。梅棹忠夫さんが亡くなりましたね。残念です。

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