カテゴリー: ホロコースト

アルカライ家のネラ

「あの山吹色の建物の、あれがわたしの家だったのよ」そう車の窓から、通り過ぎるバルコニーに向い小さく手を振ったネラ。戦前彼女が家族と以前住んでいたというザグレブ中心街の、もう長いあいだ見知らぬ者が住むアパート、そして学校、よくダンスパーティに訪れたというホテル・エスプラナーデ。ミロゴイ墓地、アルメリア工場跡地。九十に近いネラの、おそらく最後の旅が始まった。

2010年、うだるように暑いザグレブの6月の午後のこと。現在ネラが暮らしているカナダのモントリオールから同行したネラの二人の娘と孫たち総勢7人、+1は、アルメリア・タワー(Almeria Tower)と書かれた丸いガラス張りのビルの前に立っていた。エントランスの回転ドアからはビジネスマンたちが出入りし、ビル一階の「FLY」という名のカフェのパラソルの下では若者が集う。現代のザグレブのごくごくありふれた普通の光景が広がるその場所は、当時その経営者だったネラの父親の家名であるアルカライのアルをとってアルメリアと名付けらた、大きな革の染色工場場跡地の一部なのだった。

1941年。第二次世界大戦中、ネラが19歳のときのこと。ウスタシェ(ナチ同様のクロアチアのファシスト組織)による身の危険から逃れるため、ユダヤ人であるアルカライ家は工場も家も何もかもを残して、当時まだイタリアの支配下にありユダヤ人が虐げられていなかったクロアチア南部のスプリットという街へとザグレブを脱出した。その後一家は1943年までスプリットに留まり、宝石類など身の回りのものと引き換えにイタリアのローマ、米国東海岸のボルティモアへと渡り、カナダのモントリオールへとその長い流浪の旅を生きながらえた。だが、欧州を一緒に脱出しようと持ちかけたスプリットの親類のユダヤ人男性は首を縦に振らず、のちに他のスプリットのユダヤ人男性たちと収容所に送られ、そこで射殺されている。

ビルの受付に座るクロアチア人男性の前まで行くと、ネラはとぎれとぎれのクロアチア語で、以前ここは父の工場だったのだと、一家が生きのびるためにはここを逃げざるを得なかったのだと、葬ることのできない70年近い年月の想いを伝える。男性はこの老婆の言葉にすこし訝しげに頷き、「こちらに連絡してください」と事務的にビルの責任者の名刺を差し出す。そんなものはなんの役にも立たないことはわかっているのに。弁護士を通し政府に掛け合うしか方法はない。

クロアチア政府は欧州の他の国々と同様、第二次大戦中にユダヤ人から略奪した資産の返還には積極的とはいい難い。返還はクロアチア市民権保持者に対してであるなど細かな法律が定められていることやその他の理由から、そのプロセスの多くは長く厳しい。ザグレブのかつてのユダヤ人人口の90%が第二次大戦中にアウシュヴィッツやその他の収容所にて絶命しているため、彼らの資産も自動的にその主を失ったことになるが、そういった資産がかつての所有者で現在も生存しているユダヤ人に返還されたケースはほとんどないに等しいといっても過言ではない。ネラはクロアチア市民権を取得する申請はしているものの長いあいだそれは受理されず、アルメリアという名は残るが工場はすでになくなっているなど様々な角度から見ても、奇跡でもおきない限り将来的に彼女がアルメリアに関するなんらかの権利または代償手当を得ることは難しいのが、現実。企業オフィスビルとなったアルメリア・タワーの玄関を楽しげに行き交う人たちに、人の一生に、時代の流れに、なんだかとても遣る瀬ない気持ちになった。

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