カテゴリー: 心と精神の浄化

屠殺

これはどこどこ産の鴨でございます、
霜降りのどこどこ牛でございます、
おいしゅうございます、
シェフはこういう経歴の方でございます、

ナンセンス。
飽食の産物。

ユダヤ・コミュニティーで必要な鶏をザグレブ郊外の鶏屋さんで屠殺するというので、前回の牛とおなじく、見学に行くべきかちょっと考えた。でも行かなかった。やはり生きている鶏たちと彼らの鳴き声とその後の静寂を見てしまえばおそらくもう鶏肉だけではなく獣肉は一口たりとも口にできないと思ったから。もともとイスラエルに行くまでお肉はほとんど食べなかったから、そのころに戻ると思えばそれでもいいのだが。

見学は行かなかったけれど、カシェルに則り苦痛のないよう屠殺されたばかり、毛を毟られた首なしハダカの鶏たちを見せてもらった。彼らは箱の中できれいに並んでいた。棺桶に安らかに眠っているみたいに。思わず熱くなる目頭、つまる咽。「食べるため」に他の生き物のいのちをもらうこと。ああ、そうなるために飼育されて来たとはいえ、それも人間の勝手な都合でしかなく、可哀相なことをした、そう思わずにいられない。

だから、

なおのこと、わたしは屠殺されたばかりの鶏たちを見ておきたいと思った。肉を食べるとは、どういうことなのか。現代では限りなく日常的で、だから麻痺してしまったこと。スーパーやコンビニのパックからは想像すらできない、なぜか社会から隔離され覆いを被せられた裏側のできごとのような屠殺抜きに、肉を口にすることはない。彼らは食肉として売買されるだけの品物ではない、今さっきまで自分とおなじように生きていた彼らのその血を肉を分けてもらったのだ、ありがたい、その思いなしに扱ってはいけないことを忘れないために。

だけどこの気持ちもまた時間とともに薄れてしまうのも、切なくも空しく、でもそんなものなんだ。だから、見ておこうと思った。きっとまた見るだろう。だけど、たったいま棺桶の鶏たちに涙したわたしだって、それが食肉としてプライパンで焼かれ、いい匂いがしてきて、口に入れればあっという間に「美味しいね」と笑顔がこぼれるのも事実だ。人間って複雑で単純だ。だからなおのこと、自分に思い出させるために見るべきなのだろう。

近隣国でショヘット(ユダヤの屠殺師)をする友人は、これまでに数え切れないほどの牛を屠殺し、鶏も屠殺して来た。彼はもうそろそろショヘットを辞めたいという。夜、安らかに眠れない、屠殺した動物たちに夢で魘されるのだそうだ。

ああ、そういえば今日はお雛さんやったんやなあ。

箱の中の鶏たちの小さな写真はこちら→
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屠殺” への6件のフィードバック

  1. 生きるものは他の命をもらわなければ生きられない

    書けばたった一行なのですが

    でも、今、人はその事実を全力で覆い隠してしまっているように思います。

    ほんの数十年前までは、日本でも、屠ることから食事の準備が始まったのにね。
    (子供の頃、祖母の手伝いで色々経験しました^^)

    「いただきます」 「ごちそうさまでした」

    その言葉の持つ意味を 考えています。

    目の前の牛をみて、即、美味しそうとは思わなくても
    掃除され、きれいにされた霜降りのお肉は うむ、美味しそうと思う
    そうなるまでの過程がどんなであるのか見ようと思わず、想像しないようにすることは可能だから。 
    私は生きている魚を調理できません、でも。。さばかれた魚は平気だし、美味しい魚の焼けてくる匂いで幸せな気持ちになるし。

    人が見たくないと思う現実を見せないで済むような仕事は色々あるけれど 
    私の仕事もそれに近いんだな と思い至りました。

    欺瞞に満ちた世界にヒトとして生きる身で、我が身だけが欺瞞から遠くあるとも思えず
    しんどいな~と思いつつも、仕方がないな~と、軟弱なねこの手です。

    千花さんは勇気があるのね。

    1. ねこの手さん。

      こんにちはー。
      ようこそようこそ。

      >でも、今、人はその事実を全力で覆い隠してしまっているように思います。

      それなんですよねー。なんでなのかなあと。
      無味無臭、というか、どんどんいろんな現実を消し去って、
      表面上都合よいところだけにいるというか。
      なんだか本質が失われているような。

      うちの叔母も祖母もお肉がだめで、
      叔母は幼少の頃にお肉屋さんで
      ハダカの鶏がぶら下がっているのを見たからだそうです。
      確かにショックではあるかもしれないけれど、
      でもそういう過程があるということを知るのは必要だと思うんですよね。
      その後、それをどうするかは自分次第なのかなと。

      >人が見たくないと思う現実を見せないで済むような仕事

      そういう職業に就かれている方って本当に大変だなあ、
      すごいなあと思いますワ。

      わたしは勇気があるのかアホなのか、悩ましいところです。(笑)

  2. 度々ブログを読ませていただいているのですが、コメントは初です!はじめまして。少しずつベジタリアンに転換しつつある者です。理由は志向の変化と、哲学的な意味と両方なのですが、最終的には「自分の手で殺せるものなら食べる」という考えを通したいな〜と漠然と思っています(おそらくチキンスープくらいは食べ続けるかもしれません)。とはいえ、今は宗教的には全くストイックじゃありませんが、うちのパートナーも母方がユダヤ家系なので、来客などでやむを得ない時は、苦痛少なく屠殺されたコーシャーのお肉を探すようにしています。子供の頃に祖母が肉屋の子供はめくらになるのよ!という偏見はなはだしい発言をして、こどもながらに、そういうおばあちゃん肉食べてるじゃん!誰かが殺して切って売らなかったらどうするんだ!と思ったのを覚えていて、哲学的な理湯はそこに始まってるかなと思います。2004年に大阪に遊びに行ったとき、部落に関する博物館があって、そこでも屠殺に関わる人への差別を知ってまた再びショックを受けました。
    チキンスープは食べ続けるかも、と書いて、千花さんのブログを読んだら、やっぱりいつかはチキンスープも抜きにするかなと思ってしまった。日本だとこのような考えは幼いように囚われがちですが、結果的に肉を辞めようが辞めまいが、私もこういう経験って人生でとても必要だと思います。うだうだ書いちゃいましたが、また遊びに来ます!

    1. Sachikoさん。

      はじめましてー。ようこそ〜。
      SFあたりではコーシャーのお肉は簡単に入手できますか?
      LAだとユダヤ人の多く住むところなどにはありますね。

      >「自分の手で殺せるものなら食べる」

      うーん、ドキッ。わかる気がします。

      イスラエルに住んだはじめのころは魚は食べたけど
      ほとんどビーガンみたいな感じでしたが、
      それではあの乾いて暑い風土では体がもたなくなり、
      マクロビオティックも意味がなくて、
      それでチキンからそろりそろりと手を付けました。
      などなど、
      一概にベジタリアンがいいとも肉食はよくないとも言い難いのですが、
      わたしも自分の手で鶏は殺せないし、
      毛を剥いたりするのも現時点ではむりですが、
      やっぱりカラダが必要としているのであれば食べます。

      関西の部落問題、はい、革製品を扱う方も多く、職業差別もありますね。
      おかしな話しなのですが。

      またいつでもブログ、遊びに来てくださいね。
      お待ちしております〜。

  3. 風邪を引いてるうちにレイアウトが変わっていて
    わたわたしてしまいました。
    私もモンゴルで羊を私達をもてなすためにしめてくれるのを見たのがきっかけで、
    基本ベジタリアンになりました。(魚食べるからペスカトリアンか?)
    その日の羊は食べました。美味しかったです。二度と忘れないと思います。
    生きるために生き物を殺すのは生物の世界の原則ですが、
    人間は殺しすぎ、食べすぎだと思います。

    1. Sachikoさん。

      はいー、スミマセン、
      よくレイアウトが変わりますのでご注意をば。(笑)

      おお、モンゴルで!
      よい経験をされたんですね。
      自然というのはほんまに食うか食われるか、
      サバイバルですね。

      >人間は殺しすぎ、食べすぎだと思います。

      はい、そう思います。
      ヒトはそれに気がついてるのかいないのか。

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