カテゴリー: 心と精神の浄化

生きるということ


お正月早々、いきなり非常に個人的なことですが、昨年の終わりに叔母の夫ギミが亡くなりました。彼は70年もこの世に生きて、そして去っていったわけですが、それについて色々と考えさせられることがありました。

葬式に出席した父は虚しく帰宅した、と母から聞いたのですが、その理由は、叔母の夫ギミが亡くなったことにではなく、葬式での遺族の彼に対する思いにだったそうです。つまり、70年もこの世に生きた方が去って、誰も心から惜しい人を失くしたと悲しむわけでもなく、通夜の晩の二次会は楽しくカラオケ・・・。その話を聞いた私自身も寂しく、そして虚しさを感じました。人がその生を終えた時に、その人の一生がどんなものであったかの答えが、そこにあるように思いました。

仏教で言えば「因果の道理」ということでしょうか。人として、他人を思いやったり助けたりした生きた人は、どこかで誰かがその人の死を惜しみ悲しまれるだろうし、そういう生き方をせずに、人のことなどかまわず自己中心的に生きてきた人には、やはりそれなりでしかないということでしょうか。70年という長い長い人生の因と果がこれではと虚しくなったことに、虚しく寂しくなってしまいました。

私たちは、生まれたその瞬間から死に向かいながら、一歩一歩、生きています。死は遠くにあるものでも、自分には訪れないものでもない。必ず、誰にでもやって来る。ひょっとするとそれは明日かもしれないし、50年後かもしれない。その時にどう見送られるのか、自分はどう生きたいのか。ちょっと人生の道に迷った時、そんな観点から「よりよく生きるということ」の意味を考えてみるのもいいかもしれない、と思いました。

ユダヤでは、人の一生においては非常に「ヘセッド」ということに重点をおきます。ヘセッドとは「Good deed」「よき行い」ですが、「よき行い」と書くとどうも胡散臭い気がするので、ヘセッドとしておきますが(笑)。ヘセッドとは、他の人に対して行うことであって、それによっての見返りを得ようとする自己中心な行動ではなく、例えば、社会生活を行う上で困っている人に対して必要な事をしたり、人の力になったり、横断歩道で困っているお年寄りと一緒に渡ってあげるなど、小さなこと大きなこと色々。ユダヤ社会では、世俗でもそうですが特に宗教社会ではコミュニティー観が根強く存在し、他の人と助けあうことを強調した社会で、ヘセッドがモラルとして存在してる。しかし宗教や国に関係なく、私たちの生きる社会には、身の回りを見渡せば大小様々にいくらもヘセッドをすることができる。自分のした事は自分に帰ってくる「因果の道理」と、駆け引きなしで行う「ヘセッド」、このふたつを忘れることなく在りたいと思いました。

浄土であったり、天国であったり、来るべき世界であったり、それぞれの宗教では、死後の世界にその人が行き着き永遠に生きてゆける場所について話されます。そして、人のこの世での一生は、その死で持って終わるかのように思えますが、その人の一生はその人の生き方と同じ形で、死後も人々の中で生き続けるのでしょう。インドの詩人、タゴールの詩を思い出しました。

死は生に属する、生誕がそうであるように。

歩行とは、足を上げることであると同時に、

足を下げることでもある。

         

    タゴール「迷える小鳥」267節

正月早々、なんちゅうかな、な話題かもしれませんが、まあ、正月だから普段考えない事を考えてみるのもいいかもね。

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